ここだけの話をしよう

世界が終わっても 君を終わらせないんだ

「きっと」のその先

 

 

2023年4月19日。

SUPER BEAVER『グラデーション』、発売。

 

 

SUPER BEAVERにとっては○枚目のシングル。

私にとっては、1枚目の、SUPER BEAVERのシングル。

 

c/wには『名前を呼ぶよ -Acoustic ver.-』収録。

初回盤の特典には、昨年彼らが駆け抜けたアリーナツアーオーラス、ポートメッセなごやでの公演が収録された円盤。

 

なんて贅沢な新盤だ────

 

 

彼らがバンド結成18周年を迎えた、2023年4月1日。

バンド結成19年目に突入した、2023年4月1日。

あの日を迎えたあの瞬間に先行配信された表題曲『グラデーション』。

 

映画の主題歌、とか、そういうの度外視して。

“やっぱり”最高なんだよ、SUPER BEAVER

19年目にして、“やっぱり”過去最高なんだよ、SUPER BEAVER

 

私は彼らの18年間を共に歩んできたわけじゃない。なんて以前に、私が彼らの音楽に溺れたのは18年目の終わりも終わり。

そんな人間がえらそうなこと言えないけれど。

 

リリースされたものを順に追って、彼らの音楽を知って、そして、今。

〝リアルだな、ますます。〟

第一声だった。

 

誰よりどこよりロマンチストでありながら、誰よりどこよりリアルを生きるバンド SUPER BEAVERは、ロマンという名のリアルをうたうバンドだと思っている。

だからこそリアルを生きる人間が、今日を、明日を頑張れる音楽で、リアルを生きる人間の、感情が、思考が救われる音楽だと思っている。

そんなバンドの最新作は、19年目にして、ますますリアルだった。

リアルだから、痛かった。

痛かったから、救われた。

 

 

嬉しそうな顔が見たいよ

助けたいし時には許したい

声荒らげて責めても仕方ない

ひどく傷付けるなら堪えたい

 

どんなに綺麗事だと言われても。誰に認めてもらえずとも。

何があっても、何がなくても、隣に居る誰かに。目の前に居るあなたに。大切なあの人に。

笑っててほしいんだよ、本当にね。

その願いが叶うのなら、我慢だって、忍耐だって。

 

 

そんな気持ちは嘘ではなくて

でも気持ちはひとつでもなくて

行き場を失くした憤りに

溺れそうになった時

 

我慢なんて簡単に出来る。自分が耐えりゃいいだけの話なんだから。ホントに思ってんだよ?

でも、だけど。

「我慢」してる時点で。「耐え」てる時点で。

自分で目を背けているだけで、在る。

憤りとか、憤りとか、憤りとか…。

どこかに出したらあなたを傷つけてしまうから、外に出したら嬉しそうな顔を曇らせてしまうかもしれないから、自分の中に塞ぎ込んで しまい込んだその憤りたち。

知らぬ間に重たくなって、苦しくなって、私という人間を闇の中に引きずり込もうとする。

「溺れ」そうになる。

そんなとき。

 

 

掴むのは 信念か 身勝手か

思いやりか 自己犠牲か

僕ら笑い合いたいだけ

 

口も鼻も覆ってきた闇からなんとか抜け出そうとして伸ばした手が掴むのは何か。顔を上げた先に見えるのは何か。

人ってもんはどうしてなんでもかんでも名前をつけたがるんだろうね。

信念 ?  身勝手 ?  思いやり ?  自己犠牲 ?

私が掴んだこの一筋の光をあなたがどう呼ぶか知らないけど。

私は、「笑い合いたい」から、コレ を掴んだ。

 

 

それはごめんねに込めた ありがとうのよう

ありがとうに込めた ごめんねのよう

連なった本当で グラデーションになった

曖昧の中から 愛を見つけ出せたなら

 

あの時トイレ掃除を率先してやってくれたあなたに言った、「ごめんね…!」。「やってくれてありがとう」、とも思ってたんだ。

あの時プリントを持ってきてくれたあなたに言った「ありがとう…!」。「わざわざ持って来させちゃってごめんね」、とも思ってたんだ。

口に出た言葉が嘘なわけじゃなくて。見えない気持ちに嘘があるわけでもなくて。

本当なんだよ、どっちも。

一見矛盾してるように見えるかもしれないけれど。「ごめんね」と言いながら想う「ありがとう」は、「ありがとう」と言いながら想う「ごめんね」は、断じて矛盾なんかじゃなくて。

どちらも本当の私の感情なんだ。

 

「本当」に「本当」が連なると、「本当」が色濃くなるものだと思ってた。

やなぎさんが、そうとは限らないんだってこと、教えてくれた。

連なった「本当」は、「本当」を曖昧にする。何が「本当」なのか見えないほどのグラデーションを生み出す。

だからこそ。

そのなかに潜んだ を、見つけられたなら。

もしかしたらあの人が言ってた「大丈夫だよ!」は私に気を遣わせないための言葉だったんじゃないか、とか。

もしかしたらあの人がカッコ悪い逃げ方をしたのは私を守るためのアクションだったんじゃないか、とか。

そんな 愛 を見つけられたら最高だし、たとえ見つけられなかったとしても、“そういうもんだよ、みんな。”ってことを知ってさえいれば。わかってさえいれば。

笑い合えるはずなんだよね、私たち。

 

 

裏腹な態度 拭えない後悔

そんなつもりなかった じゃあ どんなつもりだった

傷つけるとわかって 口にした言葉

そんなつもりなかった

じゃあ どんなつもりだった

 

「なんであんなことしちゃったんだろう、そんなつもりなかったのに。」とかいう後悔って、なんでか知らないけど忘れられなくて。

「これ言ったら絶対に傷つけるよな。」とわかりながら投げつけた言葉には、後日「そんなつもりなかったんだ。」とかいう免罪符がついて。

 

〝じゃあ どんなつもりだった〟?

 

そんなつもりなかったんだとしたら。なんでそんな態度をとって、なんでそんな言葉を口にした。

問い詰めて出る答えはおそらく、「何のつもりもなかった」だろう。

自分の感情に手一杯で相手を気遣い思いやる余裕がなかったその瞬間の反射的行動に、動機などあるわけがない。仮に動機があってわざわざ人を傷つけにいくような人がいるのだとしたら、無類の喧嘩好きか、あるいは余程の暇人か。

「そんなつもりなかった」という言葉は、どんな状況においても、誰にとっても、見苦しい言い訳でしかないのだ。

笑い合う未来を見なかった。見る余裕もなかった。ただ自分が傷つきたくなかった。

それが真実。

 

 

白黒 善悪 正解 不正解

極端な取捨選択だけじゃない

 

白か黒か。善か悪か。正解か不正解か。

私たちの感情や行動を、どちらか一方に割り切ることができたならどんなに楽だろうと強く思う。

仮に割り切ることができたとしたら、自分の過ちにもすぐに気づけるし、他人の過ちもハッキリと指摘できる。「あ、間違ってるよ、ソレ。」

でも、自分で過ちを過ちと認められないのは本当に「だってこうも思ってた」があるからで、他人の過ちをハッキリと指摘できないのは “もしかしたらこういう意図があったのかもしれない” と思える人間の優しさがそこにあるから。

どちらか、じゃない。選べないし、捨てられない。私たちが抱く感情は。

 

 

どれもこれも嘘ではなくて

誰も聖人君子じゃなくて

行き場を失くした憤りに

溺れそうになったとき

 

さあ どうする 信念か 身勝手か

思いやりか 自己犠牲か

僕ら笑い合いたいだけ

 

「聖人君子」なんて居ない。誰一人として、「聖人君子」なんかじゃない。

ゆえに、抱かないのがいちばんとわかっていても。抱いてしまうんだよ、憤りとかいう要らない感情も。

抱いていい。在っていい。それでいい。人間だもの。

ただそれを、その抱いちまった要らねぇモンを、「さあ どうする」。

 

誇るべきは、一瞬でもその憤りの「行き場を失くした」自分である。要らねぇモンだと判断した自分である。

カッとなったからってすぐに相手にぶつけるでなく、一旦自分の中に落とし込んだのは、笑い合いたかったからでしょう。

だとしたら。

誰かを傷付けないようにあなたが自分の中に閉じ込めたその憤りが、いつかあなたを溺れさせようとしたとしても。

信念。  身勝手。  思いやり。  自己犠牲。

掴むものは間違えないで。

あなたが望んだ世界だけは、忘れないで。失わないで。

「僕ら笑い合いたいだけ」。

 

 

どんな 歓びの理由も 苛立ちの理由も

手を差し出した理由も 積み重ねなんだろう

ごまかしたい 弱さを 誤魔化すためじゃなくて

格好をつけるなら 笑い合うために

 

私たちが抱く感情とか気持ちとかって、これまでにしてきた経験 があってのこと。

経験値があるからこそ、積み重ねてきたものがあるからこそ。

 

「ごまかしたい」と言ってしまうやなぎさんが大好きだと思った。やっぱりこの人の感性と信念が大好きだと思った。ついてきてよかったと、これからもついていきたいと、すべての信頼をおけると思った。(突然すぎる重ための愛情失礼しました。)

「誤魔化す」って、やっちゃいけないこととして習った言葉だった気がするんだけど。

だけど私は胸を張って「ごまかしたい」。自分が憤り抱いちゃったこととか。なんだか気分が沈んじゃってることとか。

“自分は弱くない”、“私は強いから大丈夫” なんていう虚勢を張りたいわけではなく。カッコイイと思われたいわけでもなく。

 

格好つけたい。自分の気持ちをごまかしたい。

あなたと笑い合うために。

 

 

それは ごめんねに込めた ありがとうのよう

ありがとうに込めた ごめんねのよう

連なった本当で グラデーションになった

曖昧の中から 愛を見つけ出せたなら

 

信じられたなら

きっと きっと きっと きっと

 

曖昧の「曖」の字に「愛」が隠れているように。

白黒つけられない私たちの感情のなかに、見えずとも在る「愛」を見つけ出せたなら。

“在る” と信じられたなら。

きっと。

 

今回に限らず、やなぎさんの書く「きっと」の先は、いつも聴き手である我々に委ねられている。

でも、歌っているのが “あの” SUPER BEAVERだから、作ってくれているのが “あの” 柳沢亮太 だから、「きっと」の先に何も無くても、聴き手にはぼんやりと同じ画が見えている(気がしている。勝手に)。

今回はそんな「きっと」が最後の最後に4つも重ねられていた。

面白かった。感動した。

はじめはボヤけて見えていた「きっと」の先の画が、どんどんクリアになっていく感覚。ボヤけた視界が「きっと」をひとつ迎える度にグラデーションしていくような、そんな感覚。

笑い合いたいね、いつまでも。

隣のあなたと。

目の前の、あなたと。

 

 

こんな最高の詞を目の当たりにした私が、この曲を聴いて 痛み を感じた話をさせてほしい。

私は、「八方美人」という言葉が嫌いだ。

美人なんていう単語を使っているくせに1ミリも褒め言葉でないそれは、私という人間を表現するときに多く使われた。皮肉なもんです。

何かの間違いで友だち同士の喧嘩の間なんかに入っちまった時。

どちらの言い分も「わかる」から、「わかるよ」と言う。

しかしそれは「ねぇアンタどっちの味方なの?」の引き金にしかならない。「結局自分が嫌われたくないだけでしょ」で、両者に嫌われる。

嗚呼なんと素敵な結末なんでしょう。

あの時のCさん、Nさん。あ、MさんとKさんにも言われたっけ。お元気ですか?

今さらですが、対立する双方の言い分を「わかる」と言った私は、決して嘘をついたわけじゃないんです。本当に「わかる」って、思ってたんです。理解してもらえないかもしれないけど。理解してもらいたいわけでもないけど。思ってたんだ。本気で。

でもそれってやっぱり曖昧な立場で、彼ら彼女らにとって気持ちの良いものではない。それもわかる。(←わかる)

だから自分が嫌だった。嘘をついてるわけじゃないのに、結果的にあっちに良い顔こっちに良い顔してる自分が。

 

そんな私に。

“ ちがうんだよ、いいんだよ、それで。人間らしいじゃん。それでいいよ。”

この曲を以てやなぎさんにそう言われたような気がして。

 

冒頭で何度も言った通り、「これがリアルだ」と思った。

なぜか、白か黒でいることこそが正義だと思っている自分がいるし、世間もそれが正義だと思っている。「NO」と言えない日本人は弱者で、「NO」と言える日本人は強者。みたいな感覚が、どこかにある。

それでも私は。

白だと思う自分も、黒だと思う自分も嘘はないから。捨てられないから。どっちの気持ちも。

世論がどうあろうと。理想がどうあろうと。

私はそうやって生きてきたから。

 

だから、痛かった。

今まで悩んできたものに、嫌ってきた自分に、「人間って、そうだよ。」が刺さった。

というか、やなぎさんの「俺は、そうだよ。」が、突き刺さった。

曲を聴いて感じた痛みは、刺された痛みと、強くキツく、大きな愛に抱き締められた痛み。

そんな痛みに、救われたんだ。

 

 

 

映画『東京リベンジャーズ2 血のハロウィン編 -運命-』の主題歌という肩書きを背負ったこの曲。

公開初日に、行ってきました。映画館。

 

本編は言わずもがな。

エンドロール、ガバ泣き。

 

⚠️ちょいとここから映画ネタバレ含みます!!映画まだ観てないよって方はネタバレお気をつけを!!!!

 

 

 

 

ブログ冒頭で述べた「映画の主題歌、とか、そういうの度外視して。」などというふざけた言葉を撤回させて頂きたい。

 

一虎の歌だった。場地の歌だった。千冬の歌だった。マイキーの歌だった。

 

「マイキーの嬉しそうな顔が見たい。」その一心でバブの盗みを企てた一虎

「そんなつもりじゃなかった」のに、マイキーの兄貴を殺してしまった一虎

間違ったことだとわかっていても、地獄の果てまで共にいると誓った場地

場地がバルハラに行ったのには必ず理由があるはずだとボッッッコボコにされてなお彼の愛を見つけ出そうと必死な千冬

一虎と場地だってあんな事したかったわけじゃねぇとわかっていながら、許したいと思っていながら、大好きだと思っていながら、自分の兄貴を殺されたという事実に気持ちが追いついてこないマイキー

憤りに溺れて(なのかどうかはまだわからないけど)、一虎を殺した、マイキー

 

エンドロールの間ずっと、流れる詞に沿って、音楽に沿って、作中の人物の色んな感情が色んな表情が見えてしまってダメだった。

渋谷さんの表現力の高さを憎んだ。

「じゃあどんなつもりだった」

に、私の中の一虎が殺された。(私の中の一虎?)

 

現実を生きるひとりの人間として聴いた『グラデーション』と、映画を観終えた私が聴いた『グラデーション』。

同じ曲でありながら聴こえ方がまるでちがって。

『グラデーション』は東リべ2の主題歌なんていう肩書きがなくてもド成立しているはずが、

この映画の主題歌は『グラデーション』以外にありえないし、この映画を背負うからこそ『グラデーション』という曲は力強い重みを醸し出しているとまで思う。

 

クレジットの

「主題歌『グラデーション』

   SUPER BEAVER

 作詞・作曲  柳沢亮太」。

誇らしかったです。

 

 

 

人間として現実を生きる人間にも。

東リべを愛する人間にも。

あなた にも。

 

どうか届きますように。

 

この曲に込められた を見つけ出せたなら、

きっと。

 

 

2023.04.22

『グラデーション』発売記念。