2021年12月7日13時30分。
『LUNGS』マチネ観劇。
幕間なし100分。2人芝居。
シンプルにもう1回、
いや、もう2回観たい。
とてつもないスピードで襲ってくる初めての衝撃は、キャッチャーミットを差し出す暇もなければキャッチャーミットひとつで足りるわけもないものばかりで、初見では噛み砕くどころか受け止めきることすら出来なかった。悔しい。
もう一度、もう二度、できることならあと三度観たい。繰り返し観て、彼らがどんな言葉でどんな世界を生きていたのか、しっかり知りたい。。
でも私は、確かにこの目で『LUNGS』という超大作を観たのだ。たった2人が、たった100分で 地球 と 人間 を目一杯みせてくれた。学ばせてくれた。知らせてくれた。
この場は、私という人間が吸収した、ひとつの『LUNGS』を語る場にしたいと思う。
『LUNGS』。「肺」。
肺とは、左右で対になった呼吸器である。そのため、「肺」という臓器は英語では「LUNGS」と必ず複数形で表される。
ふたつでひとつ だから。
そんな言葉をタイトルに背負った舞台は、「M」(演:神山智洋) と「W(※F)」(演:奥村佳恵) の2人芝居。たった、2人。
彼らには名前が無い。「Man」と「Woman」(※「Male」と「Female」)。男性と、女性。
つまり舞台中の彼らが語る言葉は名を持つ“個人”の意見・見解ではなく、“男性” と “女性” という大きな括りを代表する2人が発する言葉、なのである。
喧嘩をしたとき、プレゼントをしたとき、結婚するとき、etc... カップルの話には「男からしたら」「女から見れば」なんて言葉が付き物だ。私はそんな言葉を聞く度、「勝手に性別で括るのなに?男だろうが女だろうが人によって考えちがくね?」と思ってしまう。
だが『LUNGS』はそうではなく、子どもを産む ということに関して、生きる ということに関して、世の中の 男 と 女 はどう考え、どう向き合っているのか、もっと踏み込めば、どう考え、どう向き合うべきなのかを教示すべく、“男”役と“女”役という名を持たないふたつの性だけがそこに居た。
男女の価値観。男女の心理感。
きっとそれらには(もちろん個人差はあるにしろ)地球規模でほぼ共通の何かがあって、私たちは「M」と「W」にそれを観た、というわけだ。
ここからは舞台の流れに則って、感想を書き連ねていこうと思う。
環境問題や政情不安、人口増加に育児放棄。世の中にはたくさんの社会問題とやらがあちこちに狼狽している。
子どもをひとり産むだけでCO2排出量がどれだけ増えるのか。多くの人が子どもを産まないという選択をすれば温暖化や自然災害は防げるのではないか。仮に子どもを産んだとして、産まれてきた子どもはこの地球で幸せに生きていけるのか。それなら養子をもらうってどうだろう……
MとWは良い人でいようと必死に考え、必死に話し合い、必死に歩み寄ろうとした。考え無しに行動することを嫌い、理論的に生きようとした。
ところが、理論と感情は別物である。頭ではわかっていても…みたいなことって、私たちの日常にもたくさんある。
だから彼らはできるだけ感情に歩み寄ろうとありったけの言葉を引っ張り出した。相手を傷つけまいと努めて言葉を探しているのに、伝えようとすればするほど真っ直ぐになりすぎる言葉たちのせいで、ぶつかったり、すれ違ったり…。
それはセックスという行為に対してもそうで、男女の愛を確かめる行為であるはずが、女性からしたら男性の欲望を満たすだけの行為になりかねず、男性はその女性の感覚にショックを受けることだってある。
妊娠するのはいつだって女性で、お腹に生命を感じ、同時に不安を感じるのだっていつだって女性だ。男性の身体にはなんの変化も起きないわけだから、お腹が大きくなる恐怖なんて、男性には到底わからない。
私のだから。私たちのだから。私たちの一部だから。だから私たちはそれを愛するようになるし、そうだよ、私たちは愛するようになる。それがたとえ、たとえどうでも。
上記は、産まれてきた子どもがどんな子でも、ただ泣き叫ぶ皮膚の塊でも構わないと主張した「W」の言葉である。
子どもというのは女の体内で十月十日生きたのち、外の世界に出てくる。十月十日の間に女は自分の大きくなるお腹に生命を感じ、自分の子がいる自覚を持つ。愛着や責任感が生まれる。お腹を痛めて産んだ子がたとえどんな状態であろうと、十月十日の間に芽生えた愛着や責任感は 我が子を育てる覚悟 として表れる。
では、男はどうだろう。自分の子でありながら、自分の一部でありながら、その子を誕生させるために自らの身体が変形する恐さも身体から生命を産み出す不安も産まれてくる子への愛着や責任感も、産まれてくるまで見えないし、わからない。産まれてきた子が奇形だったり、病気だったりしたら、、?肉体的負担を一切負っていない男もその子を自分の子だと自覚し、愛し育む責任を持てるのだろうか。
一瞬でもお腹の中に生きた子が、この世に産まれてくることができなかったとき。
自分のお腹で育てていた女のショックは、絶望は、地の果てにまで及ぶだろう。何日も何週間も何ヶ月も何年も。少しの間ふたつの生命を抱えていた身体が、いきなり軽くなる。口も聞けない悲しみに、話もできない苦しみに襲われて、致し方ない。
一方で、パートナーである男の身には何の変化も起こらない。不平等だよね。“私たちの子” なのに。女の悲しみなんて分かりきれないし、女の苦しみなんて和らげられるわけがない。ただ、ただいつまでも寄り添う以外に選択肢がない。それって相当の根気がいると思うし、相当のストレスだと思う。何週間も何ヶ月も続いたら、そりゃうざったいだろう。他の女とキスだってする………するか?
男は、墓場まで持って行くべき事実がこの世には存在するということを知っておく必要があった、と、私は思う。
正直でいることはもちろん大事で、嘘 はついちゃいけない。でも、言わない という誠実さもきっとこの世には存在する。きっと。
絶望の果てにいる女に追い打ちをかけるようにそんな事実を突きつけなくても…タイミングってあるだろ…しかも「明日も同じことをするだろう」なんてそんな…どういう心理…?“お前が一生そのままでいるなら俺他の女移るけどいい?”っていう決意表明…?女である私は「M」の発言も行動もなにひとつ理解できなかったごめん……
ふたりが別れてから数年。女は最大の味方である母親を亡くし、男に連絡をする。ひとりじゃ、どうにもできなかったのだろう。独りで居たくなかったのだろう。
会わずにいた数年の間に、同じく男の父も他界していたが、男は女にそのことを知らせずにいた。それは女の存在を忘れていたわけではなく、女に余計な心配やいらぬ気遣いをさせまいとした男の配慮である。
流産してから一度も誰とも関係を持っていない女と、何人かといろいろあった男。
今も独り身な女と、(何人目かの)恋人がいる男。
流産というショッキングな経験を共有してからの数年間も。
家族を亡くしたあとも。
男と女は同じ出来事を経験していながら、起こした行動はまるでちがった。
考えてばかりの頃は子どもを作るか作らないかで相当揉めて、考えて考えて考えた挙句“子どもを作る”という選択をした2人のもとには、子どもは産まれてきてくれなかった。
考えてばかりの頃は繋がるまでに相当な時間を要したのに、勢いに身を任せてみたら男に恋人がいるとわかっているにも関わらずセックスをしてしまっていた。
後悔はしてない!!
その場においては女にとって嬉しい言葉なのかもしれない。その時ふたりが幸せだったなら、それでいいのかもしれない。
でも。
…いや。いやいや。恋人おるがな。もしこれで女が妊娠でもしたr…
ほれ見ぃ。デキとるがな。
結局男は、恋人との3ヶ月後の約束より女との十月十日後の生命を選んだ。
君といるとホッとするんだ。
いや、十月十日後の生命を理由に、女を選んだ。
考えることを拒み、流れに身を任せる生き方にトライしようとした。
結婚し、出産し、子育てし、老いていき、死んでいく。
簡単なようで、普通の生き方のようで、これって実は奇跡の連続で、実はとっても難しい。
生きる意味を考えたことはあるか。
子孫を残す意味を、考えたことはあるか。
どうしたって共存を強いられる他者や地球から、目を背けていないか。
自己満足の未来を築いていないか。
………自己満足じゃ、いけないのか?
この大きな地球という惑星に住む私たちは、考え出したらキリがない大問題を山のように抱えている。そこに立ち向かおうとしたらひとりじゃおろか、ふたりだって敵わない。
そして地球規模の問題について考え出してしまったら、私たちが生きる意味すら見失ってしまう。
だからまず、その問題を知ること。現状を知ること。そして、自分自身がその問題の当事者であることを自覚すること。自分という小さな点が、広大な地球・宇宙に広がっていることを自覚すること。
知った上で、自分たちのとる行動に、行動が引き起こす未来に責任を持つこと。
考えすぎなくていいから、理論的じゃなくたっていいから、自己満足でいいから、自分の好きなことに、自分のやりたいことに、責任を持つこと。
社会問題という敵を知る輪の広がりが、いつかきっと地球をひとつにするのだろう。
愛してる。
最終的に私たちが帰すところは、“愛”なのだから。
社会問題を知り、“考える”きっかけをくれた『LUNGS』。
これからも永く続く舞台であってほしいと、切に願う。
…と、ここまで書いたところで。
結局『LUNGS』が伝えたかったことって何だったのか、という話をしたい。
この世の社会問題?
子どもを作る・産むことの過酷さ?
人間の脆さ?
“考えるな、感じろ”?
私は、わからない が主題だったんじゃないかと思う。
冒頭で述べた通り、この舞台は『LUNGS』というタイトルを背負っている。
ふたつで、ひとつ。
カップルも夫婦も、ふたりでひとつ、と数えられる。
「M」と「W」は所構わず息が上がるほどの言葉を交わしてきた。呼吸を乱してでも言葉を交わすことで、相手の想いを、感情を、考えを、さらには自分の想いを、感情を、考えを、知ろうとした。
わからない から。
相手が今何を想い、何を感じ、何を考えているのか、自分が今何を想い、何を感じ、何を考えているのか。
ふたりでひとつ、なのに、言葉にしなきゃわからないし伝わらないことって、いっぱいある。
本棚から本を持ってくる。どの本にも君がアンダーラインを引いたあと。余白には星が書いてある。君がハイライトした文をじっと見つめる。その段落をもう一度読んでみる。
僕には見えない何がこの人には見えていたんだろう…?僕が理解していないことは何だろう…?
“君”が何を想ってここにハイライトしたのか、何を感じて星をつけたのかわからない“僕”がいた。
同じ本を読んだって、男と女は相手のことが わからなかった。感じ方はまるでちがって、考え方だってまるでちがう。
私たちのだから。私たちの一部だから。
妊娠している女が何を嫌がり何を恐がっているのか、流産した女が何に悲しみ何に苦しんでいるのか、男に何をしてほしかったのか、どういてほしかったのか。
男はまるでわからなかった。理解できない部分だらけだった。
でもそれは逆も然りで、男がなぜ養子をもらうことを嫌がり、結婚を嫌がったのか。なぜパートナーが流産した苦しみに明け暮れている最中で他の女とキスし、別れてから複数人と関係を持てたのか。
女が理解できない部分もたくさんあった。理解したくない部分もたくさんあった。
わからない んだ。
ふたりでひとつでも、結局はひとりとひとり。
言葉にしなければ、何もわからない。
劇中のふたりは、深呼吸をして息を整えるのと同じくらい、「わからない…」という言葉を繰り返していた。
相手のこと、他人のことはもちろん、自分のことだって私たちはわかってない。
今自分が何を求め、何を避け、何を感じているのか。自分の周りで何が起きているのか。
(社会問題と同じで、)当事者でありながら、当事者であるが故に、わからないことばかりだ。
だから私たちは言葉をなんとか絞り出して自分を相手に伝えようと、自分を自分に伝えようとする。
今感じている〝この気持ち〟を言葉にするのって、ものすごく難しい。どんな言葉にするのが正解かもわからない。そもそも今この世に存在する言葉で表現しきれるのかすら、わからない。
でも、そこに相手が手を差し伸べてくれて正解を見出せたり、何がわからないかを相手と共有したりすることで、ひとりとひとり が ふたりでひとつ になっていく。
新たな生命をこの世に誕生させる男と女は、誰だってわからない者同士。
時にぶつかり、時に傷つけるけど、言葉というツールを頼りに歩み寄り、喜怒哀楽、もっと細かい感情までシェアしていく。
そして、ふたりでひとつ になる。同じ呼吸ができるようになる。
まったくわからない者同士が、愛し合う。
かつてソクラテスが言った 無知の知 じゃないけれど、私たちは“わからない”ことを知っておくべきなんだ。
カップルや、夫婦。血の繋がりのないふたりが相手を わからない のは当然で、むしろ わかったふり をしてしまう方が怖くて、わかろう とする努力が 愛 に繋がるんだ。
愛を、諦めちゃ、いけないんだ。
神山くんが主演じゃなかったら、ここまで身を滾らせてくれたこの最高の舞台を、奥村佳恵というとんでもない才能の持ち主を知らずにいたかもしれないと思うとゾッとする。
衣装替えもなければマイムもない、小道具もなければ、照明演出だってない。
だけどそこには確実に「M」と「W」の生涯があって、ふたりの呼吸があって、ふたりの生命があった。
『LUNGS』。
最高傑作に出逢った。
どうかどうか、息の長い作品になりますように。
2021.12.23
『LUNGS』大千穐楽