ここだけの話をしよう

世界が終わっても 君を終わらせないんだ

『音楽』

 

 

2024年2月21日。

SUPER BEAVER 『音楽』、発売。

 

アルバム発売から半年が経とうとしている。

昨日、TBSの大型音楽番組『音楽の日』で、今アルバムに収録されている『小さな革命』が、毎年恒例の大合唱企画の曲として抜擢された。

若者たちが“全力”で挑んだそれは、画面越しでもビシビシ痺れるエネルギーを放っていた。

だから、今。

半年が経とうとしている今、このブログを公開する。

 

届いてほしい。彼らの気概。

届いてほしい。彼らの音楽。

 

私がビーバーを好きになって、リアルタイムで手に入れられた初めての“アルバム”。

個人的に記念となるそんなアルバムに『音楽』というタイトルが掲げられた。

 

日頃から「音楽しましょう」って、「一緒に音楽しようぜ」って手を握ってくれる彼らの、『音楽』。

発売当時は、20年目でも20周年でもない。*1

なんの節目を迎えたわけでもないあの時、バンドマンにとって、SUPER BEAVERにとって真の根幹と言っても過言ではない『音楽』という言葉を背負ったこのアルバムは、『音楽』以外の言葉には背負わせられない音楽がぎっしり詰まっていた。

嗚呼そうだよなって。やっぱりそうだよなって。〝SUPER BEAVER の 音楽〟ってこれだよなって。そんなことを思った。

(とてつもないボリュームになりそうな予感がするのでシングル曲は割愛させていただきます無念…!!(泣))

 

 

切望

アルバム発売前に公開されたトレーラーでサビ部分を聴いた時から、”これは刻み込むやつだ。”という感覚はあった。ビーバーらしい言葉で、ビーバーらしい音楽で、ビーバーらしい愛が、このたった20秒にくっきり顔を出していたから。

とはいえたったの20秒。全貌など知る由もない私は、2024年2月20日

SUPER BEAVER 都会のラクダTOUR 2023-2024 〜駱駝革命21〜 日本武道館、初日。

すべてをさらけ出して目の前に現れた『切望』に、日の丸の下で武者震いした。

 

SUPER BEAVER だった。

 

知ってるつもりだった、というか、知ってたはずなんだ、ビーバーがどんな心根でどんな音楽を奏でているかってこと。

複雑なものなんて何も無くて。「頑張ろうぜ俺たち」って、「楽しいことしようぜ」って、ただそれだけで。

ずっとそう歌ってきて、ずっっっっとそう示し続けてくれた。

 

この『切望』は、たった4分26秒に2005年から今までのすべての時間を、SUPER BEAVER というバンドが届け続けてきた音楽を、バンドに在る心根までも、見事詰め込んだ1曲だった。

 

似て非なる僕らよ 別々で構わないよ

言葉ばかり増やして 肩書きと話すのかい

個性だ 多様だ それもまた枠だった

だからずっと言ってるんだ

初めから 僕で あなたで 人だって

らしさってなんだったっけ

 

武道館で、稲妻に打たれた。そんな歌い方卑怯だろ!!(泣)とまで思った。目から涙が噴き出した。

 

デビューしてからずっと同じ4人で音楽を奏でてきたバンドが、今、「ずっと言ってるんだ」「初めから 僕で あなたで 人だって」と、歌う。

らしさ』という曲がリリースされた2014年から10年が経った今、もう一度、「らしさってなんだったっけ」と、歌う。

 

この「らしさってなんだったっけ」のたった1フレーズ(とその後ろに鳴るコード)で、私たちは『らしさ』を改めて思い返すことができる。

個性を出さなきゃいけない そういう流行りの無個性で

悟ったように一歩引いた 匿名希望の傍観者

ちょっと待ってよ星空は 変わらずあの日と同じだよ

理解されずとも宝物は 今でも宝物のはずでしょう

↑コレ。

僕は君じゃないし 君も僕じゃないから

すれ違う 手を繋ぐ そこには愛だって生まれる

そういうもんさ 自分らしさってなんだろう

↑コレ。

彼らはずっと言ってきた。彼らはずっと歌ってきた。いや、彼らはずっと謳ってきた。

「当事者であれ」って。誰一人として同じ人間なんて居ないんだって。あなただって。だからすれ違うし、どんなに近くに居たってわからない部分もあるけど、でもだからこそ思いやりとか愛情が生まれるんだって。

コレが『らしさ』で、これこそが〝らしさ〟で、このすべてが「らしさってなんだったっけ」に対する答えだ(と私は思う)。

SUPER BEAVERのこれまでの18年間がぎゅうぎゅうに詰め込まれているこのたった12文字。この1フレーズをはじめて聴いたあの瞬間。涙が噴き出た。

 

『音楽』という大きすぎるタイトルを掲げたアルバムの1曲目。新曲でありながら18年間彼らがうたい続けてきた過去の要約でもあるこの1曲のタイトルが、『切望』。

この4分26秒は、SUPER BEAVER切望なんだ。

この4分26秒のすべては、SUPER BEAVERんでいることなんだ。

 

歓ぶ顔が見たい

僕は笑顔の渦を作りたい

巻き込んで笑いたい 巻き込まれて笑いたい

ずっと笑顔じゃいられない日々に

ひとつでも多く 大笑いの瞬間を

無償の愛じゃない そこに気持ちの往来

これがSUPER BEAVERの切望であることを知ってしまった。いや、以前から知ってはいたけど、改めてド直球に喰らった。そして、だからSUPER BEAVERが好きなんだと強く思った。

フロアで彼らからの熱と愛を喰らいながらも、同じことを想っているから、同じ気持ちが胸にあるから、本気で歌って、本気で叫んで、本気で投げ返すことができる。目には見えないけれど、ステージとフロアの間には確かな、明らかな気持ちの往来がある。

SUPER BEAVERのライブ会場には、いつもそんな〝 1 〟が集まった「かっこいい」フロアがあって、そんな空間を作り上げるSUPER BEAVERというバンドは、やっぱり「かっこいい」、なんて言葉じゃ言い表せない。

 

そしてこの『切望』が1曲目である今アルバム。

 

曖昧の中から 愛を見つけ出せたなら

きっと きっと きっと きっと

──『グラデーション』

 

どれだけ愛を謳っても 悪意は未だ消え去ってない

どれだけ面と向き合っても 想いすれ違うかもしれない

でも でも

──『ひたむき』

 

「このままずっと」

それは 甘い言葉じゃないよ あまいよ

変わっていく気持ち 変わってよ気持ち

──『リビング』

 

お互いの背景 嗤ったりしない関係

支え合うのは前提

後押ししたりされたりぶつけ合ったり

僕らはずっと潔かった 潔かったよな

──『値千金』

 

行間に隠れた人肌みたいなものに気付きたいな

されて嫌なことはしちゃいけないよな

ごめんなさいが言えない人と仲良くなれなくていい

──『めくばせ』

 

過去の願望 それを叶えるのは

いつかの未来となった今だよ

他人様の目に声に

心を支配される筋合いはないのさ

──『奪還』

 

なあ聴こえているか青春よ

未来とはあなた自身だ

いじけたオトナのうわ言に迷うなよ

──『決心』

 

一つになれるなら愛なんて 誰も謳いはしない

──『幸せのために生きているだけさ』

 

親愛なる人の 例えばその人のため

落ち込みたい 謝りたい 省みたい

──『裸』

 

歪でもいい 無様でもいい

ごめん やっぱり思っちゃうよ

生きてこそって 生きていてって

──『儚くない』

 

音楽で世界は変わらないとしたって

君の夜明けのきっかけになれたら

──『小さな革命』

 

アルバムに収録された楽曲のすべてに、SUPER BEAVERの 切望 が込められている。

同じ人間じゃないから。私とあなただから。どんなに近づいてみたって分かりきれないところはある。すれ違ったり、ぶつかったり、理解するのに時間がかかったりもする。

けどだからこそ、別々の 1 と 1 の間にあるのが ジャン?って。人間誰しもずっと笑顔じゃいられないってわかってるならせめて、自分が気持ちを汲もうと努力した相手には、自分と居る間くらい笑顔でいてほしいジャン?って。

そんな切なる望みが『切望』であり、SUPER BEAVERの“切望”は1本の太い幹となって『音楽』というアルバムに収録された全12曲のど真ん中を貫いている。

 

1曲目という重荷とも捉えられるこのポジションをまぁ軽々しく打ち破り、責任と役割をしっかり担って堂々と鎮座する『切望』がかっこよくて仕方ない。

 

3月24日、さいたまスーパーアリーナにて新ツアーが発表されたあの時。

メンバーのひとりも壇上に存在しないあの空間で自然発生した『切望』の大合唱。私たちは一つになんかなれないのに、無数の1と1がたまたまピッタリ重なって起きた大合唱。

嗚呼、これだよなって思った。SUPER BEAVERが歌いたいのは、謳ってるのは、こんな世界のためだよなって。無性に思った愛で、本気の愛で埋め尽くされた、こんな世界のためだよなって。

 

SUPER BEAVERの新たな最強アンセム爆誕

 

 

リビング

『赤を塗って』や『まっしろ』、『irony』に『Q&A』、『それっぽいふたり』、『318』など。

SUPER BEAVERが描く、ちょっぴり大人で、でもどこかあどけなくて、とっても人間味のある恋愛模様が、今アルバムでさらにひとつ大人の階段をのぼった。

 

はじめて『リビング』聴いたとき、「負けた…」って思った。やなぎさんに対して。

曲の内容はこんなにももどかしいのに、着眼点は去ることながら、気持ちの例え方といい、タイトルの付け方といい、全部が気持ち良くて、聴き終わったあとの私は気分爽快でした… 脱帽です……

 

「このままずっと」それは 甘い言葉じゃないよ あまいよ

変わっていく気持ち 変わってよ気持ち

恋のままじゃずっと側に 居られないよって気付いてよ

変わりたい気持ち 変わっちゃうよ気持ち

 

恋愛をしている人間の「気持ちが変わる」って、(何を以て「一般的」と言うのかわからないが)一般的にはあまり良くない意味で捉えられることが多いように思う。(別の人を好きになってしまった、なんか冷めた、みたいな時に使われることが多い。)

反対に、「気持ちが変わらない」= 良好な関係を維持できている と結びつけられることが多い。経年数が長ければ長いほど、確固たる気持ちを表しているように感じる。(ex.「きっと何年経っても こうして変わらぬ気持ちで 過ごしてゆけるのね あなたとだから*2

 

そんな中ビーバーさんは、“いや、気持ちってひとつじゃなくね?” という大前提のもと、 変わっていく気持ち変わってほしい気持ち変わりたい気持ち変わりたくなんかないのにもうすぐ変わってしまいそうな気持ち といった、実にさまざまな気持ちを並べた。

“好き。だからもう一歩先に進もうよ。” な彼女に対して、“好き。あの頃と何も変わらないよ。” な彼。“好きの先で彼を愛したい” と思いながらも、“この人とはこれ以上一緒に居られないのかもしれない”とまで思い始めてしまうという、いろんな気持ち。

好きなのに、一緒に居たいと願ってるのに、「このままずっと」を未だに甘い言葉だと思っている彼に対するあまさや、好きな人と居るのに付き纏う苦さ、目的地が見えない不安、かと言ってそれを口にしたら良くないことが起こりそうという恐怖、これらを感じてるのは自分だけというかなしさ。いろんな気持ち。

 

でも、押し並べて 本心 なんだ。どれもこれも嘘ではないから余計に苦しくて悩んでしまう。

 

世のカップルが歩む旅路に現れたそんな期間を切り抜いても、そこにはやっぱりいろんな気持ちが交差している。“カップル”という、限定した1人と1人の間柄を描いているからこそ、告白する、喧嘩する、浮気する、別れる、なんていう一大イベント時に限ったことではなく、本当に何気なく共に時を過ごすいつも通りのリビングにすら、行き交う気持ちが顕著に見える。

 

『リビング』を聴いてこの思考に辿り着くのは、アルバムの曲順が大きく作用している。

1曲目の『切望』で聴いた、「人ひとりの幸せに どれだけの人生が携わっているだろう」、「無償の愛じゃない そこに気持ちの往来」が耳に残る私たちは、ひとりの幸せは一人じゃ生み出せないことを知っているし、ひとりが抱く愛は一人じゃ育めないことも知っている。仏でもなければ神でもない私があなたを愛するのは、あなたが少しでも私を想ってくれたからだよって。片一方からの気持ちだけじゃ、愛ってもんは生まれないんだよって、学んでいる。

だから、目には見えないはずの気持ちのすれ違いが、いつも居る何気ないリビングに見えてしまった、というか、この曲順によって可視化された、と言っても過言ではない。

さらに、2曲目の『グラデーション』で聴いた、「それはごめんねに込めた ありがとうのよう ありがとうに込めた ごめんねのよう 連なった本当で グラデーションになった 曖昧の中から 愛を見つけ出せたなら」、「極端な取捨選択だけじゃない」、「どれもこれも嘘ではなくて 誰も聖人君子じゃなくて」。これらが意識に潜む私たちは、気持ちは必ずしも二分化できるものではないということも知っている。

だから正反対の言葉が並んでいても、矛盾を感じるより先に想像力が働いて上記の思考に一直線だし、人間が抱える葛藤の表現の仕方に感嘆してしまう。

アルバムって曲同士の相互作用スゴイ。。。

 

限定的な間柄を描いた1曲だからこそ、“恋愛ソング”という部類にカテゴライズされる1曲、且つひとりの主観に全振りしている1曲でありながら、妙にリアルで、SUPER BEAVERだなと思わされた。

人と向き合い、人と歌い、人を生きてきたSUPER BEAVERだから歌える恋愛だな、と。

 

 

値千金

第103回全国高校ラグビー大会テーマソング。

これは完全に私の個人的意見だが、甲子園にしても、オリンピックにしても、スポーツ大会のテーマソングって “第三者目線で描かれるもの” というイメージがあって。

選手、プレイヤーという主人公に対して、「ずっと君を見てきたから大丈夫」「君の背中を押すよ」「君ならできる!」って、曲が寄り添っているイメージ。めちゃくちゃ心強い応援団、みたいな。

 

けど、『値千金』は、目線がずっと「僕ら」なんだよな…!(大泣き)

 

「僕ら」目線で描かれているというただそれだけのことに、どうして私がこんなにも興奮しているのか、以下で語りたい。

 

私はラグビーをやったことがないので見た限りの感想になってしまうが、ラグビーって、チームスポーツの中でもかなり“チーム”を重んじたスポーツだと思う。

もちろん個人技が光る場面もたくさん目にするが、強固なスクラムを組む場面では物理的にもチームの結束力が目に見えるし、何よりラグビーW杯が盛り上がった2019年には「ONE TEAM」という言葉が流行語年間大賞を獲ったほど。

 

そんなラグビーの、しかも、全国の高校生ラグビー部が夢見る舞台の、テーマソング。

SUPER BEAVERが担ったそれは、曲までもがチームの一員だった。

 

僕らはずっと 潔かった 潔かったよな

潔かったのは「君」でも「お前」でも「あなた」でもない。「僕ら」なんだ。

だから『値千金』という1曲は、“テーマソング”というある種この晴れ舞台のために突発的に生まれたものでありながら、この特別な晴れ舞台に駆けつけてくれた観客スタンドに居るド派手な応援団じゃなくて、ベンチで肩組んで今までも今もずっと一緒に戦ってるチームメイト、みたいな感覚。

 

しかもこれ、

土台となった 託されたんだ

過去の先頭を進む この胸の中

終わっちゃいないんだよ 繋いで届けろ

いつの日か振り向く自分に

手にしたいものが 手渡したいものへ

値千金の季節は 生きる様を色付けていく

やなぎさんガチで何者?って思った。天才すぎて。

 

もし仮にこれを全国高校ラグビー大会のテーマソングとして聴いていなくても、グッと背中を押される一場面だ。

「地続きの過去 その上に今」をうたい続けているビーバーが歌うからこそ響くことばが並んでいる。

だけどこれ、自分がラグビー部だったら、おったまげると思う。「全国大会のテーマソングヤバくね…?これまでの過程やこれからの未来、さらに“ラグビー”というスポーツまでもが綺麗にひとまとめになってね…?」って。

 

ラグビーは、ボールを持った人が常に先頭に居るスポーツだ。

自分より前に居る人にボールをパスすることはできないし、ボールより前でプレーすることもできない。真横、もしくは後ろに居るチームメイトにパスしながら、ボールを持った人間が前にある相手陣地のゴールを割らなければならない。

 

…お分かりいただけただろうか。

 

すなわち、ラグビーというスポーツにおいて、ボールを持った人間は、チームのすべてを託された状態で誰よりも先頭を走っているわけだ。

→「土台となった 託されたんだ 過去の先頭を進む この胸の中」

 

しかし、相手チームだって自分たちのゴールを割られるわけにはいかない。ボールを持った人間を前に走らすまいと必死に阻んでくる。となるとやはり、ひとりでゴールに辿り着くのはどうしたって至難の業だ。ボールを持った“今”は、チームのすべてを託された状態でありながら、決して何も終わってはいない。

→「終わっちゃいないんだよ 繋いで届けろ」

 

そうしてボールを繋いで、先頭を走り抜きゴールを割った時、振り返るとそこには全仲間の笑顔が見える。

→「いつの日か振り向く自分に」

 

これだけのチームスポーツにおいて、きっとどんなラガーマンも “ゴールを決めるヒーローになりたい”=自分がボールを持っていたい そんな気持ちを抱いた時期もあっただろう。でも自分のポジションがなんとなく決まって、練習や試合を重ねていくうちにどこかで気づくんだ。“ボールをゴールまで繋げた奴、もれなく全員ヒーローだ”と。

→「手にしたいものが 手渡したいものへ」

 

そう気づいた瞬間から、自分のポジションに対する責任感も、ラグビーへの向き合い方も、そして、相手へのリスペクトも、重厚感が増していく。

→「値千金の季節は 生きる様で 色付けていく」

 

ちゃんと、“ラグビー”なんだよね。

なのに、ラグビー“だけ”じゃないんだよね。

 

学生だからこそ経験できていたあれそれがあまりにも多すぎて、人はあの瞬間を「青春」と呼ぶ。大人になった今、どんなにお金をかけたって戻ってこないあの瞬間。紛れもなく値千金の季節だった。

だけど私は今この瞬間も、過去の先頭を進み続けている。あの青春を経て、社会に出て、文字通り「酸いも甘いも」経験した。決して良いことばかりじゃなかったけど、いろんなことを知ったから、ほんの少しだけ大人になれた。

ということはつまり、今この瞬間も値千金の季節であるということを、私たちは私たちの生きる様証明し続けている。

そして、何度も言うようだが、「地続きの過去 その上に今」。青春時代も、そうじゃない時も。私の歩んできた過去すべてが、私の今の生きる様色付けてくれている。

 

だから、ここから。

また、ここから。

 

 

めくばせ

タイトルで勝手に恋愛ソングだと思い込んだ過去の私をぶん殴りたい。

全人類、聴け。

 

SNS時代。AI文明。

顔も名前も知らない人と繋がれるこの時代。いつどこで誰が何をしているのかリアルタイムでチェックできるのが当たり前なこの時代。

題材やシチュエーションを機械に打ち込むだけで絵やお手紙が書き上げられるこの文明。

便利だね。手軽だね。実際たくさん助けてもらってるよありがとう。

 

そう思いながらも、そんな現代に 疲れる!!と感じた回数の方が圧倒的に多かったりする。

 

Instagramを3週間放置しただけで、「こども産んだって噂になってるけどホント?」「本気で死んだのかと思った」と言われたり。

Twitterでボソッと呟いた「好き!」という気持ちに対して、顔も名前も知らない人に全否定されたり。

私の好きな人たちに対する意見という名の誹謗中傷を目にしたり。

 

疲れる。

この繋がりについていこうとするのも、ついていった結果傷つくのも、疲れる。

 

そんな現代を生きる我らに差し出された、救いの1曲。

 

繋がり合う世界に 少し疲れたら

好きを守ろう グラスを交わそう いい夢を誘い出そう

↑ここまではよくある提案だと思うんですよ。

 

でも、

可笑しな目配せの意図を  初めて汲み取れたときめき

繋がり合う世界 原点は愉快

↑これを言えてしまうのがSUPER BEAVERなんすよねェ!!!!(泣)

 

「繋がり合う世界」の原点って、めくばせ ジャン?って。

カッコ良すぎてる(泣)(泣)(泣)(泣)

 

友達にしても、恋人にしても、同僚にしても、家族にしても。

何かしらのタイミングで、ちょっと変な顔したアイツと目が合った。別に何を言ったわけじゃないけど、わかるよ、お前が言いたいこと。

↑たったこれだけなんだけど、たったこれだけのことが当人にとってはなんかもうめちゃくちゃオモロいし、運命的なものすら感じる。

めくばせってそんな愉快なもので、それこそが繋がり合う世界の原点なわけだけど、今あなたが居る繋がり合う世界は…どう? とこちらに投げかけてくる。

相変わらず、ビーバーは救いの手を差し伸べてくれる“だけ”。その手を掴むかどうかは私自身に委ねてくれるところも、掴んだら離さず最後まで握っていてくれるところも、掴んでみてわかるあったかさも、すべてが心地良い。

 

されて嫌なことは しちゃいけないよな

ごめんなさいが言えない人と仲良くなれなくていい

 

もはや煽りの域でポップなサウンドに乗せて当たり前のことを言ってくれるSUPER BEAVER、超ロックでは??

 

 

奪還

やなぎさんが「原型自体は2020年の末には合った楽曲。「未来奪還」という言葉の出自はつまり、そういう所でもある。」と語るこの曲。

はじめはコロナ禍を思いながら聴いていたが、今はそれよりもメジャーという場所に帰ってきたSUPER BEAVERの音楽としての印象が強い。

 

嗚呼、やっぱりあの時、地獄だったんだなって。

けどもう、今となっては「まやかし」と言えるまでになったんだなって。

今でも苦しいけど、それよりも自分たちでこのドラマを生きたSUPER BEAVERがカッコよくて眩しい。

 

二兎を追って二兎を得よう

いずれ終わりが来るなら欲張ろう

守りたいものを守り抜けるよう

ああ そうだ 諦めを諦めよう

 

どこまでもビーバーらしさ全開なのが嬉しい。

 

未来奪還 信じたままでいい

あれもこれも愛して連れて行く

どうせ一回きりだろう

不安に支配されてる場合じゃないのさ

悩んだって 優劣つかないのは幸せさ

やると決まれば 地獄なんてまやかし

 

あの時奪われた未来を、自分たちの手で奪い返したSUPER BEAVERにしか歌えない。

恨むでもなく、怒るでもなく、“愛して”連れて行くのが、SUPER BEAVER

優劣つけられないことを“幸せ”と言ってしまうのが、SUPER BEAVER

 

そんなバンドだからついていきたいと、強く思う。

 

 

決心

『奪還』でも同じこと言ったけど、再度言わせてください。

この曲は、SUPER BEAVERにしか歌えない。

 

私がこの曲をはじめてフルで聴いたのは、[NOiD]10周年を記念したSUPER BEAVER vs SUPER BEAVERのライブだった。

あの日、渋谷さんがSUPER BEAVERの過去を

「思い返せば、反骨心が俺たちにとっての原動力だった時期もある。マジで見るものすべて、特に「オトナ」と言われる人間を見るたびに、ここまで出かかる中指が、自分でも悔しかったりした。」

と振り返った。

 

なあ聴こえているか青春よ

未来とはあなた自身だ

いじけたオトナのうわ言に迷うなよ

 

「オトナ」のうわ言を四方八方から喰らいながらも、なんとか自分たちを信じて迷わずここまで走り続けたSUPER BEAVER「イジけたオトナのうわ言に迷うなよ」なんて言われたら、言うことを聞かずにいられない。

 

身の程なんてまだ知らない

まだ知らない 未完成を恥じるなよ

無茶だ 無謀だって言葉も

ひっくり返して歓ぶんだろう

誰もがまだ知らない まだ知らない

あなたのこれからは 楽しくあるべきなんだ

震えているんじゃなくて 奮い立っているんだと

口角を上げろ わきまえなくていいよ

 

「無茶だ」「無謀だ」って言葉をちゃんとひっくり返して、こんなにもたくさんの人と音楽をして歓んでいるSUPER BEAVERが目の前に居る。

「口で言うのは簡単だけど…」「そうは言っても無理なものは無理!」なんて言わせない。

言うだけじゃないから。実際にできちゃってるから。

カッッッッコよすぎだろ……

 

そう。そうだよ。当たり前のことなんだよ。

「無茶だ」「無謀だ」って言ってくるオトナたちのその言葉、うっかり信じてしまいそうになるけど。

そんなオトナたちだって人間で、神様でもなんでもないんだから。これからのこと、ましてや“私”のことなんて、わかるはずないんだ。

 

わきまえなくていいよ

このたった一言に救われた人間が、一体どれだけ居るだろう。

 

 

幸せのために生きているだけさ

一つになれるなら なんて 誰も謳いはしない

はじめてこのフレーズを聴いたとき、ハッとさせられたのを通り越してゾッとしたまである。

 

1と1がぴったり重なって1になるから愛なんじゃなくて、どうしたって完璧には重なりきらない部分があって、でもそれを互いがどうにか擦り寄って重なろうとするから愛なんだ。

 

駱駝革命21ツアーの武道館初日、渋谷さんはこう語った。

「音楽という手段を使ってあなたと一緒にこの時間を過ごしているからこそ、あなたにわかってほしいなって思うし、あなたのことわかりたいなって思うけど、どうしても、腹の底まではわからない。

あなたのことも、俺のことも。超近いところで言えば、やなぎのことも、上杉のことも、藤原ことも。95%くらいは理解してたって、残りの5%はわかんなかったりするんだよ。

じゃあその残りの5%って寂しいことなんすかね。哀しいことなのかな。諦めなきゃいけないことなのかなって考えると、その5%、わからないその部分が、思いやりとか、愛情とか、友情とか、想像力使って自分で補える部分。自分にしか補えない部分に代わっていくんだとしたら、人と人が分かり合えないことっていうのは哀しいことではないなと思うようになりました。」

 

1と1の間。

そこにと呼ばれるものがあって、同じところに、SUPER BEAVERの音楽がある。

そしてそこにはきっと、幸せもある。

 

歓ぶ顔見て 救われる心

夜を超えていく 理由もまた人

全てがつながる 全てが始まる

幸せのために生きていくだけさ

歓ぶあなたと生きていくだけさ

幸せのために生きていくだけなのさ

 

歓ぶ姿に どれだけ救われてきただろう

 

同アルバムの1曲目に収録されている『切望』を覚えているだろうか。

SUPER BEAVERの、切なる願いを。

歓ぶ顔が見たい

これなんすよ。

 

なぜ歓ぶ顔が見たいのか。

その答えは、“あなたの歓ぶ顔が、私を救ってくれるから”でしかない。

泣いた顔より笑った顔の方がいいとか、歓ぶ顔見たら嬉しいとか、そんな次元じゃなくて、もう終わりにしたかったけど、明日も生きてみようかな。嗚呼、生きててよかった。とまで思えるレベルで、あなたの歓ぶ顔に命が救われる。

 

それを愛と呼びたいし、そんな愛こそが幸せで、私たちはそのために生きている。

ただ、それだけ。

 

 

究極の引き算で、本当に必要最低限の音数で、静かに心の隙間に忍び込んでくるこの曲は、『スペシャル』や『さよなら絶望』で武装した私の心をいとも簡単に素っ裸にした。

 

SUPER BEAVERに出逢って、なんとか前を向く気力と、壁を打破するための武器と、それらを維持するための愛をもらって生きている私は、気を抜くとどこまでも闇に堕ちてしまうという自覚があるのだけれど、なんというか、自分の好きなバンドに自分の弱い部分をこうも引き出されてしまうと、涙が止まらなくて…

 

哀しみを自分の所為で

生み出してしまいたくない

それが一番辛い

 

本心。自分の所為で哀しむ人なんか生み出したくないと、心の底から思っている。

なのに、そんな気持ちを伝えると返ってくる「善い人すぎる」がどうしても皮肉に聞こえて、「偽善者」呼ばわりされて、けど想ってることは変えられなくて、また傷ついて、落ち込んで、そんな自分が嫌になって、消えたくなる。

ずっと消えたいと思ってた。早く塵になってしまいたいと。

そんな時に出逢ったんだ。SUPER BEAVERの『スペシャル』に。

 

またひとつ歳を重ねて またひとつ意味を宿して

楽しくありたいと願うと 「誰かのため」が増える 人間冥利

何回だって笑いたい 生きていてよかったって

歓ぶ顔が見たいと 自分のために思う 人間冥利

何があっても 何がなくても あなたがいないと

 

善い人ぶっちゃいないよ むしろエゴだよこんなの

何がなくても 何があっても 何がなくても「普通」を続けたい 大事な人

何があっても 何がなくても あなたがいないと

 

この曲と出逢って、はじめて自分の気持ちを全肯定してもらえた。

間違ってないんだって。これが「普通」だと思っていいんだって。やっと思えた瞬間だった。

だから私は、心に『スペシャル』を武装した。『スペシャル』は私にとってちょっとやそっとのことでは揺るがない強靭な武具となった。

 

そんな武具をくれたSUPAER BEAVERによる『裸』。

私が武装する自らの『スペシャル』をスルスルと通り抜けて、私のいちばん弱い部分を握られたような感覚。

でもそれは決して握りつぶすでなく、キュッと手を握ってもらったような優しさで。

私の奥底に眠る冷たいところに届いたそれは、人肌ほどのぬくもりを帯びていた。

 

「生ぬるい偽善だ」

遠くの方 知らない人のしたり顔じゃ

もう落ち込まないよ

親愛なる人の 例えばその人のため

落ち込みたい 謝りたい 省みたい

 

落ち込むことも、謝ることも、省みることも、「したい」と思ってするものじゃなくて、せざるを得ない状況下でするものだし、もしもせずに済むのなら絶対にしない方が良い。

だってエネルギー消費半端じゃないもん。しかも、負のエネルギー。

それなのに、負のエネルギー、無駄に消費して、無駄に自滅してないかい?と問いただされたような感覚。

どうせ消費するなら遥か遠くの知らない人のためでも、ましてや自分のためでもなく、親愛なる人のためだけにしとこうぜって。

落ち込むことも謝ることも省みることも、ひとりじゃできないことなんだよねェ… 人と人が居てはじめて成り立つ行為なんだよねェ… 私たちは結局、どこまでいっても と生きてるんだよねェ…

 

削ぎ落として 解き明かした

単純な今のこと

 

やなぎさんは今、自分を極限まで削ぎ落として解き明かした結果、この『裸』という音楽にありついたのだろうか。

すごいな。嬉しいな。

削ぎ落とした結果ありつく先が此処であるバンドに、今の時点で出逢えていることが、私の人生における財産だな。

 

 

 

小さな革命

この曲が『音楽』というアルバムを締め括る1曲であるということ。

この曲こそが“SUPER BEAVER音楽”であるということ。

 

誇りに思います。

 

SUPER BEAVERは知っている。

ただ吸って吐いているだけじゃ、どうしてか息が苦しいということを。

愛とか、夢とか、希望とか、未来のことを話してくれる大人って意外と居なくて、いつしか自分も語るのが怖くなっているということを。

「胸の内を明かす」という誰かに言わせりゃ“たったそれだけ”のことが、誰かにとっては世界を大きく変える「革命」であるということを。

音楽を届けるのがSUPER BEAVERである以上、受け取る側に想いさえあれば、音楽は夜を明かすきっかけにはなれるということを。

夜を明けさせるのは、世界を変えるのは、音楽そのものではなく、いつだってだということを。

 

愛とか 夢だとか 希望とか 未来のこと

上手くいかないことだらけ かもな

でも 死にたいとか 絶望とか 今日まで堪えたのも 誰だ

 

『裸』、『儚くない』と、前の2曲で立て続けに自分の “死生” を通り過ぎた私たちに、このフレーズはズルい。

消えたいと思う時もある。でも、年々死ぬのが怖くなってる。

どんな理由であれ、生きて今日を迎えるという選択をしたのは、紛れもなく自分自身だ。

それはすなわち、自身の人生において当事者を全うしている証明でもある。

 

「俺はあなたを傍観者にする気はさらさら無いんすよ。俺は今日、あなたに当事者になってほしくてここに居ます。」

「自覚はありますか?俺が居たから、私が居たから今日が成り立ったという自覚はありますか?」

渋谷さんがライブでよく発するこの言葉たちからしても、やっぱり音楽そのものに力はないんだと思う。

ただ、音楽という媒体を通して明らかになる「◯◯がしたくてここに居る」「こう在りたい」というその自覚が、音楽を届ける人間と受け取る人間の力が、小さな革命を起こし、大きな世界をも変えていく。

 

「音楽」

「音楽」

 

「現実逃避のための音楽ではなく、現実と向き合うための音楽を。」

SUPER BEAVERの音楽は“そういう音楽”だって、渋谷さんはよく口にする。

だからカッコいいし、だから夜明けのきっかけにだってなれるんだと思う。

アルバムタイトルを、こんな大きすぎる単語を、なんの装飾もないどころか、鉤括弧で強調してでも歌詞に入れてしまえるくらい、SUPER BEAVERが持つ説得力は群を抜いている。

 

ここで、もうひとつ。

今まで徹底して「あなた」だった二人称が、こんなにも大きな『音楽』というタイトルを掲げたこのアルバムの最後の曲で、「」になった。

もしかしたらそんなに深い意味はないのかもしれないけど。この局面でっていうところに意味を感じてしまったので、私の勝手な憶測を喋らせてください。

「あなたたちではなく、あなたにしか興味がない。」その想いは曲にも明確に表れていて、彼らの曲中に出てくる二人称はある時を境に徹底して「あなた」で統一された。

この表現は“ビーバーといえば”の代表的スタイルを確立したと言っても過言ではない。

それなのに、“ビーバーの音楽”を表すこの場面で、自らそのスタイルを破壊。相変わらず攻めますなァ。

はじめて聴いた時、幾ばくかの驚きはあったものの、これといった違和感を感じることもなかった私は、あ、「もういい」と思えるところまできた証なのかな、なんて、勝手に思った。

 

先ほども言った通り、ビーバーといえば「あなた」、というスタイルが徐々に徐々に浸透し、確立し、“伝わ”った。

俺たちはあなたたちじゃなく「あなた」に歌ってんだぞっていうその覚悟と責任が、長い年月をかけてちゃんと聴き手に伝わった。

これから出逢う新たな仲間にも、二人称が「あなた」じゃなくても、あなたに向かってしか歌っていないということを伝えられるだけの力が今のビーバーにはあるし、それだけのものを積み上げてきた。

「あなた」に向かって歌っているというフィールドにおいて完全に敵が居ないから、無敵だから、だから二人称が「君」になったところでなんの問題もないというか、彼らの届けたいものは届くべきところにちゃんと届く。

故に、「もういい」のかな、と思いました。

この件に関しては本当に私の個人的憶測に過ぎないので、「フーン。そう思った奴も居るんだ。」くらいに思っていただけると嬉しいです!

そして!私の『小さな革命』に対する個人的な熱い想い・愛は以下ツイート添付画像にて存分に語っておりますので、もしよろしければそちらもご覧ください…!

 

 

SUPER BEAVER デビュー19年目のアルバム、『音楽』。

 

音楽で世界は変わらない。

でも、音楽に人は救われる。

 

彼らの音楽が、彼らの『音楽』が、どうかたくさんの人の元に届きますように。

 

 

 

2024.07.14

*1:2024年7月14日現在、SUPER BEAVERはデビュー20年目をひた走っている。

*2:『未来予想図Ⅱ』/ DREAMS COME TRUE